海外留学体験レポート B−4
アメリカ・メイン州・1年
R.N.さん(本人) 留学中編 2008年7月掲載

 出発日(2007年8月8日)

早朝の箱崎集合で、3時間しか眠れませんでしたが、出発当日の朝に家を出るだけでOKなので、東京都に住んでいてありがたいなと思いました。首都圏外の派遣生は前日に都内で一泊しなければならず、見送りが母親だけという人もいました。

機内では、AFS生は後方の座席に集団でした。12時間を超えるフライトがさして長く感じられなかったのは、これから始まる一年への期待やら興奮やらのせいだと思います。日本語による雑談の後、現地での実践に向けて折り紙講座や簡単英会話講座を開いてみたり。機内で睡眠を取れたのは、ごく一部の人だけでしょう。

ニューヨークの空港では、点呼の後、何を待っているのか謎な時間が1時間弱。派遣地域ごとに分けられ、ただひたすら時が過ぎるのを待ちました。その後、大型バスに乗りホリディインへ。さらに細分化された地域ごとに荷物を置いた後は、自由時間。さして広くないフロアをうろうろしました。日本からのAFS生が一番最初の到着だったようで、後にヨーロッパやタイからの留学生も到着して合流しました。Breakfast Dinnerの後は、深夜バスの出発時刻まで、睡魔との激しい攻防戦でした。肩こりがひどかったです。室内は空調が効き過ぎてて、寒かったです。

 出発日の翌日(メイン州到着)

寝心地の悪い深夜バスに9時間揺られて、Maine州内のどこかの大学に到着しました。早朝の4時です。眠かったです。この日は一日、時間差でやって来る留学生達を現地ボランティアが迎えるだけで、食事の時間を除けば他はすべて自由時間でした。朝と夜は寒いくせに、昼だけは暑いという気候でした。宿泊は大学の寮でした。

 出発日の翌々日(ホストファミリーと対面)

ついにHost Familyとの対面です。朝から入場の練習をし、昼食後にセレモニーでした。舞台の上からだと、誰が自分のHost Familyだか分かりませんでした。初めて見たHost Familyは、とにかく大きくて、怖かったです。

黒いテディベアを貰って、Host sisterを除く全員で自宅へ。滞在中に使用するのは、大学の寮生活をしている一番上のHost brotherの部屋でした。地下で窓が一つもなかったですが、言い換えれば昼を過ぎても普通に寝ていられるいいお部屋です。唯一の難点は空調設備が何もないこと。冬はとても寒かったです。

 8月中旬

する事もなく、知り合いもおらず、ずいぶんと暇な日々でした。

私が派遣されたのはとても小さな町で、家はぽつんぽつんとあるだけです。1キロくらい、家がなかったりします。町の中心部に行ってもあまり店がありません。映画で見た小さな町よりも、さらに小さな町です。そのため、買い物や外食は、クルマで30分か1時間走って、大きな町に行くのが普通でした。

<町にあったもの・家から近い順>
施設名 家からの距離 備考
レンタルビデオ屋 犬を連れて徒歩30分 レンタル料は1本1ドルくらい
中華デリ レンタルビデオ屋の隣 レストランではない
ガソリンスタンド レンタルビデオ屋の隣 ミニスーパーつき
アイスクリームスタンド 犬を連れて徒歩90分 夏だけ営業、美味しかった
銀行 クルマで5分 このへんが町の中心部らしい
郵便局 銀行の隣 このへんが町の中心部らしい
ガソリンスタンド クルマで8分 ミニスーパーつき
Tシャツ屋 クルマで10分 高校のクラブTシャツはここで注文
墓地 クルマで11分 高校の向かい
高校 クルマで12分 とうてい徒歩では行けない距離

 8月下旬@School

時間割や在学中の学年を決めにホストスクールに行きました。アメリカの高校は、1年生から4年生までの4学年で、Freshman、Sophomore、Junior、Seniorとなっています。アメリカでは、「留学生は年齢に関わらずSeniorとする」という高校が多いそうですし、「5か月年上のホストブラザーがSeniorなので、できれば同じ学年で」とMomが交渉してくれましたが、この学校での規則では、私はその1つ下のJuniorということになりました。

最初のCulture shockは、学校裏手の生徒用駐車場です。軽く見積もっても100台以上、しかも続々とやって来る生徒たちのクルマで、広大な駐車場はどんどん埋まっていきます。唖然としました。

 9月@School

ついに始まった学校は朝7時半〜午後2時まで、約90分間の授業の合間の休み時間は4分。行きと帰りは5ヶ月ほど年上の高校生のHost brotherの車です。日本の両親はかなり心配していましたが、彼の運転はなかなかで、乗り心地は大学生のHost sisterやHost brotherの何倍も上でした。

 9月中旬@YMCA

Young Men's Christian Association(当然、YWCA=Young Women's Christian Associationもある)、通称YへSwim practiceの申込へ。室内で、25 yard poolと15 yardのfun poolです。練習は9月中から始まり、10月以降は毎週土曜日にSwim meet(試合)がありました。これに、その後はじまった学校の水泳部のPracticeとSwim meetを合わせると、泳いでばっかりの毎日になりました。

水泳のシーズン中(秋〜春)は、友だちと出かけたりする時間がありませんでした。今思うと少し心残りです。本気でどれかひとつのスポーツに絞ってやるならそれでもいいですが、ちょっと参加する程度の方が、アメリカらしい4シーズン・スポーツを楽しめていいのではないかと思います。

ちなみに、学校のSwim meetは毎回School busでの移動でした。毎回、集合時間に遅れかけたりする人間はいましたが、交通事情(雪など)のせいで大会に遅れたことはありませんでした。そもそも、Snow stormなど天気予報があまりに悪いと、Swim meetは中止になります(シーズン中、4〜5回中止になりました)。

Yの方は、バスも出ているらしいですが、私はホストファミリーと一緒にクルマで行きました。こちらは、雪のために中止になったことはありませんでした。高校生のHost brotherは、このYのSwim practiceに以前から参加しており、その上の大学生のHost brotherも以前は参加していて、Swim recordをいくつも打ち立てています(壁に記録が掲示されていました)。

水泳の練習はYが2時間半、学校の水泳部が2時間くらいです。練習の強度は、日本の私の高校の水泳部のテーパー期(競泳用語、もともとは英語で「刃物などを研ぐこと」、試合に向けてトレーニング量を落とすなどして疲労を取り除く時期)と同じくらい、つまり楽でした。

学校の水泳部の方は、部活と言うよりも水泳の授業に似ていました。水泳経験がなくとも友達に誘われて参加する人がいるため、泳力のレベルはかなりまちまちで、4学年で30人くらいいる中で、女子では私が一番速かったです(私は、小学校に上がる前からスイミングには通っていましたが、選手コースではなかったので、日本の私の高校の水泳部では速いグループには入れません)。楽しくワイワイという練習で、2時間で2000メートルくらいしか泳いでいないと思います。水泳の指導は、高校の音楽の講師(休日はYで泳いでるらしい)やコーチです。一度だけ、オリンピック選手が来てくれました。さすがに速かったです。世界記録をいくつも持ってるとか…。

Yの練習は、日本の水泳部の部活に似てますが、参加人数が少なかったです。日によっては、4つのコースに1人ずつなんてこともありました。練習メニューは、学校の水泳部よりもきめ細かく、練習の合間に筋トレもやりました。私の泳力で、Yの中では中くらいです。Yには週何時間練習するかで3つのコースがあるので、参加者の年齢は10歳くらいから18歳までいました。Bronzeは週1回、Silverは週3回、Goldが週5回で、私が参加したのはSilverです。大会によっては、Gold以上でないと出られないものもありました。たまに、練習なしでピザの出前を取って映画を見るようなFan nightもあり、楽しかったです。

 9月下旬@AFS Camp

AFSのCampが2泊3日でありました。現地到着後、約1か月が経過して、順調にやっているかどうかのチェックだと思います。Camp場のキャビンには窓ガラスがなく、9月というのに夜間は凍えるほどの寒さで、深夜に何度も目が覚めました。昼間も相変わらず寒く、みんなで暖炉の前に椅子を並べて、そこで雑談しました。

オリエンテーションと言っても、日本でやるように分刻みに細かくスケジュールが決まっているのではなく、かなり自由時間や自由行動が多かったです。AFS Stuffがパズルやジェンガー、トランプ等々の室内遊具を持って来てくれていたので、みんなで遊びました。昨年までのAFS生が残していった冬物衣類の無料配布もありました。厚手のセーターやコート、マフラーなどです。私も現地を発つ時には、もう使わないと思った冬物を十数点、残して来ました。

2日目の夜は、Talent Showがありました。派遣生が何か舞台上でするというものです。他の留学生と一緒にやってもよいし、小道具等を持ち込んでもOKで、母国語や英語の歌から始まり、民族舞踊やコントなどが披露されました。芸などない!と言ってる人でも何かしらしなくてはならないのが辛いところです。私は折り紙を披露したら、その後に「これを作って欲しい」、「あれが欲しい」といろんな子がやって来ました。

「留学で英語が分かるようになるには、最低1か月」と言われていますが、私はこの時点ではまだまだでした。アジア圏やヨーロッパから来た子同士の英語の会話に、まだまだついていけませんでした。速くて全然聞き取れません。日本人同士は日本語で会話しましたが、私の周囲には学校を含めて日本語を解する人が誰もいなかったので、随分と久しぶりに日本語を話しました。

 10月@学校の避難訓練

10月のある日、避難訓練が行われました。内容は火事と不審者です。不審者での避難訓練には驚きました。先生が細かく、銃を持った不審者が入って来たら抵抗しないで、大人しく教室の隅に移動すること、みんなで固まっていること、などなど。そんな練習をするのか、アメリカって怖いなあと思いました。日本でも最近は不審者の避難訓練をしていますが、想定はナイフを持っている程度です。こっちは拳銃です。

 10月下旬@Haloween

家の中はオレンジ色だらけ。小物もたくさん、ガイコツとか、ヘビとか、コウモリとか、かぼちゃとか。momが大きなパンプキンを買って来たので、一緒にランタンを作りました。意外と疲れましたが、出来はなかなかで、夜にロウソクを入れると、とても綺麗でした。

また、家から20分ぐらいのところに、学生主体で町もちょっと応援して作られる毎年恒例の仮設のお化け屋敷が開設されたので、寒い中並んで入って来ました。なかなか凝っていました。ホストブラザーやホストシスターも、数年前には手伝ってたらしいです。

 11月下旬@Thanksgiving

Thanksgivingの休暇に合わせて、NY州に住むMomのSisterの所へ家族みんなで行きました。大学からの帰宅直前に、大学生のホストブラザーが事故にあって、クルマは原形をとどめていない状態になりました。軽いケガで済んでよかったです。でも、別途クルマをレンタルしなければならなくなったため出発が遅くなり、到着したのは深夜でした。

ちなみに、私のHost familyは5人家族でクルマは5台。それを聞いて私は「Oh, you are so rich !!」と言ったら、そうでもないよ、とのこと。このあたりでは一家の人数=車の台数という家が珍しくなかったです。

MomのSisterの家は洋風の素敵なお屋敷で、Bathroomは4つ、キッチンは2つ、リビングとダイニングも2つ、ベッドルームはいくつあるのか分かりませんでした。いつもは4人で住んでいるそうです。庭は中学校の校庭と同じくらいの広さで、大きな犬が2匹、放し飼いでした。緑だった庭は、夜の雪で翌朝は真っ白になってきれいでした。

Momの親戚はNYの半径30分圏内にほぼまとまって住んでいて、我々だけがMaine州で例外だったようです。Thanksgiving当日は人が来るわ、来るわ。みんな自己紹介してくれるけど、名前なんてとうてい覚えられませんでした。MomのDadとMomだけは「I'm granma」とか「I'm granpa」って言ってくれたので分かりましたが・・・。

この日は朝からBoys' kitchenが展開されてお昼ご飯作りです。みんな家が近いから、当日の10時前後にぞろぞろと集まって、メインディッシュのターキー丸焼きを始め、ポテトサラダやブレッド類、ジュースなど、どう見ても食べきれそうにない量の食事がキッチンに所狭しと並んで、ビュッフェ方式でした。

日本では馴染みが薄いですが、Thanksgivingはアメリカではとても大きな行事です。翌日はMomの両親・兄弟の家へ行って、誰かのBirthday partyでした。深夜まで大人たちはビールとピンポン玉を使ったゲームで大盛り上がりでした。机の上にビールの入った紙コップを5つぐらい置いて、少し離れた距離からピンポン玉を投げ、紙コップに入ったら相手チームはそのコップに入ったビールを飲まなければいけない、というルールです。ビールを飲みたいなら、普通に飲めばいいのに、と思いました。

帰りは延々、10時間近いドライブでした。

 12月@Christmas

12月上旬に、X'masに向けたプレゼント購入がスタート。街もすっかりX'masカラーです。アメリカのX'masは気前がとてもいいです。1回のクリスマスで、だいたい20個くらいのプレゼントがもらえるのが普通らしいです。本人に何が欲しいか聞いて、家族全員が他の家族へ1人1個ずつ買います。X'mas Eveの朝は最後の買い物のチャンスなので、どの店でも普段はあまり見かけない父と息子のペアがいっぱいいました。

手作りのお菓子の家(後で食べます)やクリスマス・ツリーはもちろん、暖炉には全員分の靴下とロウソク、その他X'masの小物もしっかりと飾ります。暖炉の上のロウソクは、Eveの夜に1時間だけ火を灯します。このロウソクは、子供が生まれた時に両親が買って、それから毎年Eveの夜に1時間だけ使うのです。ずっと使えるように、かなり太くて大きいロウソクでした。私もひとつ、おすそわけをしてもらいました、

そして、大プレゼント開き大会です。一人一個ずつ順に開いていって、感謝の言葉を伝えます。なかなかドキドキしておもしろかったです。Thanksgiving中にNYで会えなかった親戚には、Mom達がプレゼントを送ったようです。特に子供には、プレゼントは欠かせません。ラジコンのおもちゃとかお姫様の衣装とかです。こんなにいろいろもらえるなら、アメリカの子供に生まれたかったと思いました。

「明日はホワイト・クリスマスかな?」とMomに訊いたら「毎年よ」って言われました。この頃はあたりはすっかり真っ白で、Snow stromの後には雪かきです。X'masまでに5回か6回はSnow stromやFreezing rainのためにNo schoolでした。でも、雪が降ってると外に行けないし、徒歩でどこか行くにも遠すぎるので、No schoolがいっぱいあってもつまらなかったです。

 12月@英語の夢

このころになって、ようやく他人の使う言い回し(慣用句)を日本語に置き換えず英語のまま理解し、自分のものとして使うことができるようになり、「英語が話せるようになった」という実感が得られるようになりました。そしてついに、英語だけの夢を見るようになりました。

 1月@New Year

さっぱりした正月でした。1月2日から学校がありました。日本の正月に慣れているので、寂しい限りでした。大晦日も別に何もなく…相変わらず雪一面でした。

 1月下旬@Swim Meet

Swim meetが3日おきぐらいにあって、なかなか楽しかったです。外は寒く、濡れたままの髪でクルマまで歩くと途中で凍りつくぐらいでしたが、充実した日々でした。

 3月上旬@State Meet

今シーズン最後のSwim meetと、待ちに待った(?)State meet(州大会)でした。State meetには、みんなでSchool busに乗って行きました。一日目が男子、二日目が女子で、競泳種目の間には飛び込みもありました。州内でDiving teamがあるのはたった2校ぐらいなので、飛び込みの選手は全部で20人もいないくらいでしたが、なかなか見るのは楽しくて、あの飛び込み台から飛び込んでみたいものだと、友だちと話してたりしました

 3月下旬@Winter Sports Banquet

Winter Sports Banquetがありました。冬季に活動したすべてのTeamが集まって、各Teamごとと全体での表彰式です。表彰式では各Team2名ずつ、Most valuable(最優秀選手)とMost growthful(最も成長した選手)がコーチなどから選ばれ、表彰されます。私は、水泳Teamの女子のMost valuableを受賞してしまいました。休み時間には無料のアイスクリーム・サービスがあり、うれしかったです。真冬でしたが大盛況でした。

その後、私たち留学生は、特別にTeam全員のメッセージ付の集合写真とプレゼントを貰いました。Momによると、留学生がBanquetで表彰されるのは珍しいそうです。

 4月上旬@Spring Break

4月、日本ではお花見の季節なのに、こちらでは雪ばかり。この頃、約1週間のSpring breakがあり、AFSの留学生たちとQuebecへ旅行に行きました。QuebecはMaineよりも緯度が高いので、やはりMaineよりも寒かったです。

クルマで2時間少しでカナダに入国できました。近いのに、公用語はフランス語なので、標識も何も読めません。でも私たちは留学生の団体なので、12人もいれば、1人ぐらいはフランス語を母国語とする人もいます。その人が、通訳として働いてくれました。また、その他の人たちも英語を母国語としないのに英語で半年以上生活しているので、言葉が通じなくて臆するということはもはやありません。平然と英語で「いくら?」とか「もっと安くして!」とか、活発に発言していました。たまにNo englishとか言われたりもしましたが、そしたらI'm sorryです。なかなか楽しい3日間でした。

Quebecは、街が古くて赤茶色のレンガ色で、風が強かったです。国籍によってはCanada入国の際にビザが必要な人もいましたが、そのためだけに$75も払うのかと思うとちょっと気の毒でした。ピザが必要だったのは主にアジアの国々です。日本だけがアジアの中で除外されているようです。

 5月中旬@いろいろ

帰国前オリエンテーションと学校のPromが同じ週末に行われて、とても忙しかったです。こっちでこの頃から関心が高まって来てたのは、ガソリン価格の値上がりです。それでも、リッターあたりの価格は日本の1/3くらいでしたが、公共交通機関があまりなくてどこに行くにもクルマが必要というアメリカでは、クルマは生活必需品なので、ガソリン価格の値上がりは生活している人全員に共通する大問題のようです。

 6月上旬@Graduation

Graduationがあり、Seniorだったホストブラザーは一足先に卒業です。Junior以下は、その後も1週間以上学校に行かなければならず、とても不公平だと思いました。

Graduationは、とても盛大な行事です。アメリカでは入学式がないためか、この行事に多数の人が集まります。家族だけでなく、小さい頃にお世話になったベビーシッターや、近所の人までいろいろな人が来ます。なので会場も学校のホールではなく、大きな都市の大きなホールでした。大型スクリーンにカメラの映像が映し出され、後ろの席からでも入場行進やスピーチしている生徒の顔がよく見えるようになってました。

卒業式そのものは全部で2時間くらいです。その後Seniorたちは、どこかでSenior nightで一晩中騒ぎ明かして、みんな揃って朝帰りでした。

Graduationの前後1週間ぐらいは、あちこちの家でPartyが開かれて、Seniorたちは大忙しでした。学校でも、Graduationの1週間ぐらい前からClass nightなどの卒業関係イベントが毎日のように行われて、Seniorとその家族が毎晩集まってました。

Graduationやその他の関係イベントで生徒代表としてスピーチするのは、その年のSenior Top 10の面々です。町の新聞でこの10人については、顔写真や名前、親の名前、卒業後の進路などが発表されるので、誰もがそれを知ることになります。Seniorのホストブラザーも、8位で掲載されていました。なお、学校のガイダンス・オフィスに行くと、Senior以外でも自分の成績と学年内の順位を教えてくれるらしいです。

 6月中旬@留学生活の仕上げ

帰国が近づいてきたこの頃、私も学校が終わって、他の留学生たちと多くの時間を過ごしました。ほとんど毎日、予定がつまっていて、こっちへ来たばかりの夏休み中とは大違いです。

留学生の中には、Good-Bye Partyを開く人もいました。私は友達たちの予定が合わなかったのでパーティーは開きませんでした。もうすぐ世界中に散ってしまう留学生たちと、寸暇を惜しんで一緒に遊びに行ったり、話をしました。お互い、似た状況にいるので、共通の話題は絶えません。それぞれの母国の話は、とてもおもしろかったです。私にとって、AFSの仲間は、現地の友だち以上の存在です。

 6月下旬@帰国準備

荷造りを始めました。1年前よりも預け入れ荷物の規定が緩くなり、スーツケースを2つ預けられるようになったので、大いに助かりました。お部屋の片づけも始め、見逃していたMaineの観光地を訪れたり、忙しかったです。

 7月上旬@帰路

出発日はAFSスタッフの家に朝7時集合です。仕事があるMomとは、ここでお別れしました。泣きました…。

その後、Portlandへ移動し、Maine州に派遣されたAFS留学生が全員集合しました。ここで、Host Familyとお別れするAFS生もいました。

その後、どこかの島へ。そこで日中自由に過ごしましたが、本音を言うと、この部分はなくていいから、もう少しHost Familyと一緒にいたかったです。夕方に元の場所に戻り、2台のバスに分乗して、NYCへ。夜行バスの中では、眠れた人と眠れなかった人がいたようです。

7月1日の早朝、NYCのどこかの大学に到着。NY経由で帰国する各国からのAFS留学生が集結してました。行き先によって出発時間はバラバラで、日本人は出発時刻が早かった(朝9時か10時くらい)ので、それほど暇でもなかったですが、深夜11時出発のタイの子たちは、暇を持て余したと思います。大学の敷地内にはSport Gymがあり、シャワーを使えました。シャワールームにはカーテンなどの仕切も何もなく、蛇口が10個ほどあるだけ。北欧の子たちは水着を来ていましたが、我々日本人はそのままで浴びました。

時間になったら、自分の荷物を持って、指定されたバスに乗って空港へ。そこでスタッフからチケットを渡され、行列に並んでチェックインで荷物を預けて。セキュリティを通った後は搭乗時刻まで自由でした。昼食代として$7か$8渡されて、最後に免税店で買い物するもよし、お土産探しするもよし、でした。

往路の機内はあるブロックをAFSが借り切ったような状態でしたが、帰路の機内はなぜか一般のお客さんもところどころに混じっていました。往路ほど無茶せず、おとなしく寝ている人が多かったです。機内では「帰ったら、まず何をするか」、「まず、何を食べるか」、「学校にはいつから行くか」などなどの話をして、成田に到着しました。

 参考:英語力の推移

私の場合、留学先で日本語を話すのは、AFSのオリエンテーションなどで日本人の派遣生と会ったときだけでした。日本の両親への連絡は、Momのパソコンを借りて、もっぱら英語のメールです。日本へ電話をしたのは、1回か2回だけだったと思います。そのため、「ほぼ完全に英語しか使わない環境」で11か月を過ごしました。

英語の方は、2か月くらいで日常会話はOKになりました。しかし、thとs、lとrの違いなどをしっかり聞き取れて、学校の授業をきちんと理解できるまでには、3か月くらいかかりました。

その後は急に英語力が高まりました。4か月の時点でHost Familyや友だちと雑談をかわせるようになり、さらには英語の夢を見るようになって驚きました。

5か月たったころには、何をどう話すかを英語だけで考えるようになり、頭の中が日本語から英語に切り替わったように感じました。

しかし、英語のジョークをすべて理解するのは難しいです。11か月たった時点では、一般的なジョークや軽いジョークは分かりますが、歴史や文学や音楽などの教養を必要とするジョークは、分からないものもありました。

「語学力を磨くための留学は、最低でも半年が必要」と言われているようですが、私の経験では、その通りであると思います。